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2023.12.08

Maintenance

祖父のカメラの調子を見ていると、電池が切れているらしいとわかった。
10円玉を溝に当てて回し、蓋を外す。こうして取り出したのが "4LR44" 、パナソニックのサイトで確認すると、この種別の電池は製造終了しているとの情報を得た。

相当品は "4SR44" 
思いがけず、電池ひとつに学んだわけだ。

 

2023.11.16

Autumn in Nagoya, 2023.

秋の終わりに名古屋へ。

近頃、一息に寒くなった東海地方は、特有の強い西風が吹き始めたとこ
ろだ。
携帯電話の知らせてくる去年の写真によれば、だいたい同じ時期にわたしは名古屋へ足を運んでいるらしい。街路樹の葉は青々として、夏の余韻を残したままだ。その代わりに歩道に落ちているものといったら、栗色の付け爪が一つ。

店先にテーブル席を出している屋台風の居酒屋では、ストーブを設置する準備をしていた。火のかかりが悪く、店長らしい人物とアルバイトの青年が腕を組みながら頭を悩ましている。
「去年の灯油だからかなあ」と言いながら、カチカチと音の鳴るダイヤルを何度も右へ回す。

わたしはちょうど名古屋駅西口の交差点で信号を待っているところだった。ビックカメラの地下一階の売り場でコダックの36枚撮りのフィルムを買った、その帰りだ。

2023.11.08

あなたの本棚

2023年もこうして終わってゆく。
そうだ。わたしは一人、感慨に耽る。

ホームページをクリスマス仕様に切り替える作業を、午後9時過ぎの某コーヒーショップで行った。ルイ・アームストロングの歌声とトランペット、その深い愛の啓示の下で。クリスマス仕様といって、背景が赤色になったくらいなのだが、なんだか文字が読みにくい。これはまた改善しておく。

先日、豊橋駅の構内を抜けるとき、作業員たちが街灯や屋根のある通路の雨樋に電飾を引っ掛けて回っていた。駅前大通りも、広小路通りも、徐々に作業を始めるだろう。まだ明かりのない、白濁した電飾が波のように垂れ下がり、この時期特有の強風に煽られながら静かに息を潜めている。それを見て、わたしも準備をしなければならないと、思ったのだ。

これは聞いた話だが。
我が街、豊橋市の発行する、
地域情報誌「広報とよはし」
ここに掲載されている情報は、発行のおよそ3ヶ月前には入稿用のデータが求められる。要するに12月の広報豊橋に掲載されている情報は、少なくとも9月には情報としてほぼ確定しているというわけだ。この"3ヶ月前"の時間感覚が、諸般の事情によりゆっくりとわたしの感覚として馴染み始めて3年が経った。多くは書かないけれども、わたしは今、1月の企画の準備をしている。来年の干支、「辰」について考えを巡らしているところだ。

それから、性懲りも無くというか何というか。来年に向けてまた小冊子を作ろうと思っている。どこかでそれを売れればよい。せっかくホームページがあるのだから、ここで通販をやってみようとも思う。いずれにせよ、東三河での生活、それがテーマのつもりだ。地方都市や"まち"への興味がわたしをそういうふうに導いてくれる。作りながら暮らし、作ったものがわたし自身を乗り越えて、東三河の見え方、それ自体を退屈だけれど味わいの深い、やさしさに溢れた物語やあなたに寄り添う形代として本棚の隅に収められる。そういうところを目指そう。

2023.11.03

Lolita

取り留めもない話をしよう。

一ヶ月のスケジュールを手帳に書き入れるとき、それぞれ用事の所在によって色ペンを使い分けている。有休は青色で、引き落とし関係は緑色、特に大事なイベントは赤色といった具合だ。その他、分類し難い用事というのもあって、そういう時はまとめて紫色が担当している。

近頃というか、年末年始。手帳をパラパラめくってみれば、諸所に紫色で何事か書かれている。スケジュール帳というのは不思議なもので、自身で予定を管理しているつもりになって、その実、自分でもいつ組んだのかもわからない雑事に取り囲まれて、いよいよ四面楚歌である。そういう性格の人を、わたしも含めて何人か知っている。

今年の3月頃だっただろうか。
わたしは、ナボコフの書いた『ロリータ』という本を読んでいた。

読んでいたといっても、わたしはかなり雑然とした日々の中でそれを読み、ほとんど右から左へ文章は抜けていった。そういうわけで、その本を一通り読んでも、それ以前に挫折しかけたキューブリックの『ロリータ』の冒頭、ハンバートが卓球をしているシーンの奇怪さの印象すら拭えなかった。作品の全体像は未だ霧の中である。結局、読後。今、わたしが思い出せるのは、以下のシーンばかり。

物語も半ば過ぎて、
ロリータはハンバートの古い車に乗っている。
彼女はその車について無関心そうに、こう言うのだ。

「あっちこっちがなんか紫っぽくなってきたわね」

わたしには「紫っぽくなってくる」と言うのが何かのイディオムなのか、感覚的な表現なのかわからなかったが、だからこそ、それがとても知的な響きに思えたのだ。

話は戻るが、スケジュール帳だ。
わたしのスケジュール帳はその通り、だんだん紫っぽくなってきている。

2023.10.29















Food

最初、それはなんてことない例えのつもりだったけれど、聞く人によってはその後もずっと心に残っている。

電車で名古屋へ向かっている休日の午前のことだ。
同じ車両に乗り合わせている若い学生の話し声が、ときおり聞こえる。話しているのは、何かの食べ物についてだった。若い学生は、その食べ物が甘いとか、ちょっと辛いとか、ふわふわだとか、サクサクではないとか、冷たいとも温かいとも言えないとか、とにかく言葉を尽くしていた。それを聞いているもう一人の若い学生や、わたしはその食べ物が一体どんなふうなのか、他人の夢の話を聞いているみたいに掴みどころがなかった。若い学生はその食べ物の話がつまらないみたいだと自分で気がついたのか、
「まあ、」と一区切り設けて、
「地方都市みたいなものだよ」と言った。

若い学生は、それ以降、その食べ物の話はしなかったし、もう一人の若い学生も別の話題をたくさん持っているらしかった。

わたしは、それから名古屋へ着くまでの間、「地方都市みたいなものだよ」と称される食べものについて考えた。味や食感の形容詞を並べるよりも、その例えの一言は、ある食べ物について芯を捉えているに違いないと思ったからだ。

わたしに残された食事の回数のうちに、「地方都市みたいな」味や食感、温度、香りのする食べ物に出会えたとしたら、たいへん嬉しい。精神的な成長というのはそういうことだからだ。そのときには、これまで蔑ろにしてしまった人々、物事、あるいはわたし自身に対して、少しはマシになったみたいだ、という旨の手紙を書きたいと思うだろう。

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2023.10.20















TSINGTAO

先日、一人、バーで飲んでいると二人のお客さんが入ってきた。マスターの知り合いの外国の方だ。一人は日本の生まれだが、10年ほど南米に住んで、最近、豊橋に帰ってきたのだと話していた。その方は女性で、現地ではカポエイラを習っていたと言っていた。豊橋にもカポエイラのコミュニティはあるそうで、こちらでも習い続けているという。

わたしはマスターに断って、冷蔵庫を開けた。このバーはそういうシステムなのだ。冷蔵庫の中には何種類かのビールが入っていて、わたしはその中から鮮やかな緑が綺麗な瓶を取り出す。TSINGTAOの文字の下には"青島啤酒"の繁体字が金色に鈍く光っている。

最近、カポエイラの先生に呼称をつけてもらったと話していた。カポエイラはもともと、南米に連れてこられたアフリカの人々が、それぞれの主人や監督者に隠れながら護身のための武術を身につけようとして発展したとされている。だから、その武術はときに踊りのように見える。踊るように闘い、闘うように踊るのだそう。

呼称は、カポエイラを習うときに使用される。密かに鍛えていることを誰かに知られても、本名とは別なのでシラを切り通すための秘策だと彼女は言っていた。

中国のビールを飲みながら、わたしは彼女の話に感心しきりだった。

踊りといえば、明日10月21日(土)は豊橋祭りがある。夜には駅前大通りを通行止めにし、そこを会場とする市民総踊りが催される。音頭に合わせて、踊りながら通りを練り歩くわけだ。

もちろん、一見それはカポエイラとは似ても似つかない。けれども、不条理に対して、なんとも言い表せない心のしこり、その昇華の為に、いよいよ必要に駆られて、踊る以外ないって心理なのだとする。通底するのは、踊りは無制限に拡張可能なデバイスだからだ。そうだとすれば、あの革命的なプレゼンテーションの一言も、いつか、踊りとなって壇上のジーパンの男に返ってくるのだろう。

"it's not too shabby"

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2023.10.18

appliqué

自分でアップリケを縫い付けた。
ある雨の日のことだ。

肩の辺りにシミのあるために、大須で安く買った古着のワークシャツ。多少の汚れは古着の風合いだとして、気にしていなかったが、真っ白く、控えめな羊のアップリケを広小路の布地のお店で見つけたとき、これならピッタリだと思ったのだ。

深い眠り。子供の頃の、松の林のような、秋。枯れた針葉が、無限の言葉のように足の下に敷かれ、いくらかはポキポキと音を立てて、ふかふかとした濡れた地面の中に沈んでゆく。

深い眠りというのは、そういうふうに沈んでゆくことなのだ。

2023.10.17

夕食を共にすること

これは今年の夏の終わりの話。知り合いの家族と夕飯を共にした。関係というと、豊橋駅前の、とある商店街での企画で、終わりしな急遽予約した打ち上げ会場の焼肉屋で、末端のテーブル席にわたしたちが寄り集まったといった方が正しい。

わたしの隣には知り合い家族のお子さんが二人、腰掛けていて(座るというよりは自身の領域内で最大限活動している)自然わたしは彼らの箸が落ちそうになっているのを直したり、飲み物の入ったグラスを倒さないように離れたところへ置き直すなど、やいのやいの世話を焼いてしまった。

一人は小学生だったこともあり、わたしは不意に
「もう宿題は終わった?」とたずねた。
「終わったよ」と彼は言った。わたしは、
「そっか」と一言。

変な間ができてしまい、慌てて
「早めに終わらせて偉いね」と付け加えた。

その子の母親は、ストローを使って自身のグラスの飲み物を攪拌している。円を描くように、グラスの淵にピッタリとストローを当てて回す。そうすると飲み物に入っている氷自体がスピードを持って、流れるプールのようにストローはそれに押されて一人でに回転する。わたしには、母親のその仕草が、その食事会の一回かぎりのものというよりは、手癖なのだろうとわかった。

回転するストローとパイナップル・ジュース。隣のテーブルでは来年以降の企画はどうしていくかって話で白熱した議論の真っ只中だ。わたしは、自身の手帳の白紙のページを開いて、二人の子供と一緒にボールペンで絵を描いていた。一人はトランスフォーマーのオプティマス・プライムについて、話を聞いて欲しがった。これが2023年の、わたしの夏の終わりだった。

テーブルの中央の網の上で、タン塩が六切れ、ジリジリと焼けて縮こまっていた。

2023.10.12

singing voice

20時過ぎの豊橋駅前。某コーヒーショップの前を通りかかるとルイ・アームストロングの歌声が聞こえた。これが現代日本の風物詩だ。日本の、中核市以上の都市では、目抜き通りを吹き抜ける乾いた風と共に、彼のトランペットと歌声を聞いて、冬の訪れを感じるのだ。

2023.10.11
















手土産のアサリ煎餅

この写真は2023年8月8日に撮られた。19時10分。豊橋と豊川のちょうど市境にあって、豊川ICと弓張山地の方を望んでいる。一筋に並ぶ光の点は東名高速道路のライトで、三次元的にはZ軸方向に延びているから光の点の間隔もぎゅっと詰まり、明かりも小さくなってゆくのがわかる。

そのときのわたしは、東海道新幹線の自由席に乗っていて、山側の、窓際の席で携帯電話を構えていたってことになる。新幹線は豊橋駅を出て徐々にスピードを上げてゆくところで、わたしの無明の身体を名古屋へ運ぶ。かつて父は、これが社会のスピードだと幼いわたしに言ったが、現在のわたしの陥りがちな甘い憂鬱とも関係するだろうか。

わたしは手土産の紙袋を隣の空席にそっと置く。豊橋駅のキオスクで買ったアサリ煎餅がそこには入っている。わたしが頂いたのではない、これから人に差し上げるのだ。これが帰路ではなく、往路だとする物質的な確さが、その手土産には備わっている。わたしは携帯電話をしまって、シートに深く腰掛ける。静かに長い呼吸をして、駅のホームの自販機で買ったいろはすを口に運んだ。新幹線が発車して早々に、誰かが缶ビールを開けるカシュッという音が、同じ車内のそこここから聞こえたときには、アルコールの誘惑に居た堪れなくなりはしたが、仕方がない。今回の旅先を、自身の人生の内に、すでに数多ある無名の星にはしたくないとわたしは考えていたから。

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2023.10.08

laundry

深夜のコインランドリーにて、今夏、わたしの就寝を支えてくれたタオルケットが大型の洗濯機の中で回転しているのを、作業台のそばの、一脚の椅子に座ってわたしは眺めている。外では雨が降っているが、雨音は洗濯機の運転音にかき消され、窓ガラスに付いている無数の雫が、一体何に起因するものなのか、わたしはときおり忘れる。そうだ、家を出るときには降っていなかったから、雨具は持たなくてもよいだろうと判断したのは失敗だった。携帯電話で豊橋市の雨雲レーダーを見ると、10分刻みで更新される雨雲の動きに片時も途切れる様子はなかった。洗濯の残り時間を示す、赤いデジタル表記の数字が、眠りに落ちる前のまどろみのように永く、あるいは短くわたしの時間経過の平等性を打ち破ってゆく。

わたしは携帯電話のメモアプリに今日の日記を書き始める。それ以外に、この時間の過ごし方をわたしは考えられなかったから。文字をフリップ入力しながら、永らく連絡をとっていない人々の顔がぼんやりと思い浮かぶ。彼ら、彼女らはみんなわたしの記憶の避暑地、そう、軽井沢のような土地で、白樺に囲まれた林の只中、古くて大きなロッジに住んでいる。彼ら、彼女らはそこで快適に過ごしている。ロッジには地下に降りる階段があり、通じている地下室はワインセラーになっている。真冬には雪がどっさりと降り、ロッジは市街地から隔絶される。それでも、ロッジの中は水鳥がガーガー鳴きながら呑気に生きていけるくらい暖かい。

そういうふうに書いて、これを今日の日記にしようとわたしは思う。深夜のコインランドリーは生き物のようにわたしを内側に匿いながら、全く不思議な時間を過ごさせる。このコインランドリーにおけるエレメントは二つ。洗濯機の回転とタオルケットの所為だ。その回転は時間と空間に属し、タオルケットはわたしに属している。それらは攪拌されて、わたしにも想像の及ばないような記憶や想像力の隅の隅を刺激する。そうしてわたしは、まだ出会ってもいない誰かのことを懐かしく思い出したりするのだろうな。

2023.10.06

In Kanazawa

リチャード・ブロウティガンという作家がいる。
詩や小説を書いた。主にアメリカで暮らし、1984年に49歳で亡くなった。年に一度は、彼の本を読んでいる。彼の本が好きなのだと思うが、ときに好きなままで良いのだろうかと不安になる。

わたしがこの作家の本に触れたのは大学2年生の頃。石川県金沢市で暮らしていて、夕方から始まるアルバイトの前に大きな書店に立ち寄る。そうしたルーティンの中でのこと。「うつのみや」という書店が柿木畠に本店を置いていた頃の話だ。柿木畠本店の一階は雑誌やムックのフロアなので、二階へ。河出書房文庫の棚に並んでいる『西瓜糖の日々』をわたしは手に取る。黄昏のような色のカバーデザインが美しく、ほとんどジャケットで買ったのだ。石引町にあるアパートの一室で、積読の時間がしばらく続き、夏の初め、あるいは梅雨の終わりにそれを読み始めた。当時、武蔵ヶ辻の近江町市場の脇に、旅行代理店があり、その二階にコメダ珈琲があった。わたしは大学の講義の終わりに、よくそのコメダ珈琲に向かい、奥の窓際のカウンター席に座って、本を読んでいた。アルバイトがない日は、ある時期、ほとんど毎日そうして過ごしていた。

2023.09.21
















light

電照菊のハウスが見えたのだった。蒲郡豊橋間を走る東海道本線新快速の車窓から、橙色の光を内側から受けてぼうっと明るい蒲鉾のような、ヴォルフガング・ライプの花粉の家型のような柔らかなものが見えた。電照菊のビニールハウスだ。わたしは、もうそんな季節だったのか、と思う。ズボンのポケットから携帯電話を取り出して、窓の外にカメラのレンズを向ける。さっき通りかかったハウスはとっくに過ぎ去ってしまったが、この先また電照菊のハウスはあるはずだと当て推量して、再びそれが現れるのを待った。

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2023.09.06

lint

2023年の夏は、わたしにとって、今日をもって秋に移ってゆく。そう思うことにしよう。豊橋行きの名鉄各駅停車に国府駅から乗り、青い稲穂の揺れている日暮れの郊外を進む、そう、その時だ。伊奈駅を過ぎ、東名高速道路の桁下を抜ける。

わたしは吊革を掴みながら、片手でカルディの紙袋を握っている。グァバの缶ジュースとトマトソースの瓶、プラザで買ったユースキンのハンドクリームがそこには入っている。今年の春先にオープンした豊川のイオンモールの帰路。

2023.09.05

application

先月の中頃からX(旧Twitter)を絶っている。いざそうすると、あれほど毎日撮っていた写真を撮らなくなった。ふと、あこれはツイートしようと思うこともあるが、そうだ、絶っていたのだった。

四月から手帳を買い替え、中身をカスタマイズできるシステムのものにした。スケジュール帳とは別に、無地の画用紙の冊子を加えている。Twitterをやめた代わりに、自然、書き込む先がこの冊子になる。先日、もうこれをTwitterとしようと思い立ち、表紙にアイコンを描き入れた。なんというか、様になっているじゃないか。X(旧Twitter)からの引越し先は、この手帳というわけだ。

​このホームページも含めて、なるべく長く使っていきたいと思っている。

2023.06.27
 
比重など

「暑い」ということだけで日記を書こうとした、昨夜。そもそもそれが憂鬱であるのに、書くほどそれが過剰になる。体験的な文章を書こうとしている所為かもしれない。だから、今夜は別のやり方を試そう。

 窓というのは、可能であれば二つ欲しい。一つの部屋に対して、二つの窓。わたしはベッドから起き上がり、まず南向きの窓を開ける。わたしの部屋からすると、その窓の方角は太平洋に面している。渥美半島の方。遠州灘があり、海があるわけだ。そのどれも実際には見えない。わたしの目にはベランダだけ。ただ、あるのだと想像している方が、風について少しだけ詳しくなった気がして、嬉しい。次に東向きの窓を開ける。こちらは小窓と言った方が正確だろう。南向きの窓は左右に引くのに対して、東向きの窓は上下に引く。開口部もささやかなものだ。こちらは静岡県の方向。弓張山地が淡く見え、その向こう側に浜名湖があり、浜松市があるというわけ。この二つの窓を開けて、わたしはベッドに戻る。風が通る。それは南の窓から入って、東の窓を抜けていくのがわかる。風はわたしを舐めるようにして、どこかへゆく。

 わたしが幼いとき、母がよく言っていたのは、朝、起きたらまず家の窓という窓を少しずつ開けて回り、風を通せ、ということ。わたしは、ときおりそれを思い出して、朝、家の窓を少しずつ開けて回る。それから支度をして、出かける。小雨が降り出したときには、わたしは窓を閉めて回る。わたしが出かけているとき、父が家にいれば、父が窓を閉めて回る。ハウスキーピングという点について、わたしと父はなかなか結託していると思う。最近、わたしは扇風機を出した。暑い日にはエアコンも使うが、扇風機と併用すると効率が良い。エアコンから来る冷たい空気と部屋の熱い空気とを攪拌するのに、扇風機が一役買う。緞帳が下りるように、冷たい空気がゆっくりと降下し始め、部屋に満ち、わたしの肩、肘、膝が順番に冷気を感じ取る。窓の外、隣の家の塗り直した壁が太陽の光で真っ白く見えて眩しい。遮光率の低いカーテンを引く。こんな調子では、そろそろセミが鳴くのではないかと思う。

 わたしは昨日買っておいた鶏むね肉を冷蔵庫から取り出して、ソテーにして食べた。

2023.06.03
 
parabola

  台風が去って翌日、暗くなった頃に散歩に出かけた。風が少しあって、初夏というけれどもまだまだ肌寒い夜。梅雨の只中。

  用水路に沿って歩く。狭い歩道が続いていて脇には雑草が生い茂っている。ときおり近くを自動車が走り抜け、そのライトによってわたしの足元がハッキリと見える。歩道と車道の間には反射材付きのガードレールがあるから、かなりの暗がりとはいえ、交通の安全は保証されているような散歩道だった。カエルの鳴き声がし、頭の上でチラチラ飛び回っているものはコウモリに違いない。それらをうるさいと感じるかどうかは人による、わたしは気にならない方だった。

  用水路の対岸、人家の庭で子供たちが手持ち花火をやっているのが見えた。光の粒がゆるい放物線を描いて地面の近くでフッと消える。その連続。子供の一人は、手持ち花火を両手に持って、光で円を描いていた。すると、玄関から母親(かもしれない)が出てきて子供と一緒に手持ち花火を楽しんでいた。

 その一部始終を見ていたわけじゃないが、思いがけず行き合ったその花火見物はとてもよいものだった。用水路の対岸で、その家の前を通る何十歩かの間だけ、手持ち花火の赤や青、黄、緑と次々と現れては消えてゆく粒たちと風にたなびく煙、半袖・半ズボンにサンダル履きのラフな着こなしの人々。
 
 ちょうど、このあいだ書店で法政大学出版局から出ている『花火』(2019, 著:福澤徹三)が店頭に並んでいるのを手に取ったことを思い出した。「ものと人間の文化史」というシリーズの一冊。数ページ開いてみて、裏へ返す、ハードカバーの厚い本にしてはそこまで高価ではないと思った。その場では買うことはなかったが、記憶というのは不思議なものだ。おおよそこんなふうにして、わたしは本が読みたくなる。見ず知らずの家族の手持ち花火が、ただの通行人のわたしに、それについて書かれているであろう文章を読みたいと思わせる。豊橋へ戻ることがまずは大事だ。今度、書店に行った折にはその棚へ、本を求めてみよう。

2023.06.01
牛乳パック

 乾燥させた牛乳パックにハサミを入れて、展開する。裏地はツルツルしていて、なめらか。牛乳の油分が折り目の溝にこびり付いている。触れるとボロボロと崩れてゆく白い膜。

2023.05.28
Early Summer Fair.


  セール品の無地のTシャツ(色数は豊富)が一着980円でショップの入り口のラックに掛かっていた。これからの時期を見越して、着まわしやすいTシャツは何枚あってもいいだろう。ショップの奥の棚には、まだ肌寒かった頃の、春物のアウターが並べられていた。よく見ると、最大50%オフのシールを値札の上に貼られている。これが最後のチャンスとばかりに売り尽くしの気概が見て取れた。実際、最近はもう暑い日がほとんどな気がする。イオンモールの専門店街、ファッションのショップが集中しているエリアをわたしは歩いている。日曜日だからか、家族連れのお客さんが多く混雑していた。わたしは、ウィンドウショッピングってわけでもなく、気に入ったものがあれば買うつもりでここにいる。いくつかショップを見ていくと、セールの形式がそれぞれで異なっている。二着買うと10%オフになったり、対象のTシャツを二枚買うと一枚が50%オフになったりする。初回購入時にアプリで会員登録すると500円引きのクーポンが利用できるところもあった。

    フロアを一巡したところで、連絡通路のソファに腰を下ろした。歩き疲れたからだ。わたしのいるソファの横で、高校生くらいの男女のグループがモニターに映るフロアガイドを見て、行きたいショップを調べている。それはタッチパネルになっていて、指ですらすらと操作する。わたしが子供の頃、たしかそこにはただのぺっとした非モニターのフロアガイドがあって、三つ折りのマップが所々に用意されていたのだっけ。

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